京都・島原で、すっぽん料理



九州の島原市と区別するために、あえて「京都・島原」と書く。
京都・島原といえば、江戸時代以来公許の花街として賑わい、
遊郭だけにとどまらず、幕末の勤王志士や新選組の隊士達も通い、
画家や俳人なども訪れて文芸も盛んな場所として発展したそうだ。

しかし、明治以降は次第にさびれて、現在では、島原入り口の「大門」、
置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋(わちがいや)」、
揚屋(今の料亭に当たる店)の「角屋(すみや)」、
の3ヵ所が往時の名残をとどめているに過ぎないとか。

遊郭であり、京都の花街の風情を色濃く残した場所で、
元禄創業の置屋「輪違屋」の裏手の静かな住宅街の一角にある
「円亭(まどかてい)」で、すっぽん料理をいただいてきた。
なお、中央卸売市場の近くでもある。


これが、島原入り口の「大門」。


現在の大門は1867年建築と書かれている。


ここが、唯一現在も営業している置屋兼お茶屋の「輪違屋」。


軒先には輪違屋の重なる2つの輪が描かれた軒行灯。


これが、揚屋(料亭・饗宴施設)として営業していた「角屋」。
1998年より「角屋もてなしの文化美術館」として公開されている。


角屋の前には「長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」と
「新撰組刀傷の角屋」の石碑が建てられている。

吉田松陰の弟子で、尊王攘夷派であった久坂玄瑞が、
かつては、この角屋で同志と協議を重ねていたとか。
新選組は、玄関の刀掛に刀を置かず部屋に持ち込んでいたそうで、
部屋の何ヶ所かと前庭の柱などに新選組による刀傷が残っている。


島原西門碑。
島原の入口は,当初は東の大門だけだったそうだが,
享保17(1732)年に西門が設けられたのに、
昭和と平成の2回の交通事故により倒壊したとか。
そこで、この石標は島原西門跡を示すものである。


ありし日の西門の写真を焼き付けた石板。


島原住吉神社。
「島原西門碑」は、この神社の塀際にある。
神社の小さな境内は、島原花街の北西角にあり、
花街だった島原で信仰を集め続けた神社だとか。

さてさて、お待たせしました、いよいよすっぽん料理です。


先ずは、店に入る前に店の前で写真を撮って…。
料理は絶品ですが、店はシンプルな感じです。


前置きが長かったということは、そう、料理の写真は少ない。(^^;)
「先付」の写真は全く無し。「すっぽんのお造り」に箸をつけた後、
しまった!写真、写真、と、夫と私のお皿に残っていたのを合わせた。
したがって、盛り付けは運ばれて来た時のように真似たが私自身のもの。
なお、この量で1人分である。 1匹のスッポンで3人分位を作るそうだ。

肩の身(赤身)と関節の油と卵(黄身と白い殻入り)と肝と心臓と腎臓。


「ルビー(すっぽんの生き血)」は、焼酎や甘い酒で味付けしていて生臭さは無い。


看板料理の「すっぽんの〇(まる)鍋」。
円亭の〇鍋の自慢は透明度が高く澄んでいるスープ。
この時点でお鍋にはすっぽんだけが入っている。
この後では、いろいろな野菜類が鍋一杯に入る。


〇鍋のスープでは、〆のラーメンと雑炊にしてもらえる。
店主さんに写真を撮りたいと話して、カメラを出していたので、
ラーメンを食べてしまってから、店の人に「写真撮った?」と言われ、
しまった!又忘れた!忘れてばっかりと、やっと雑炊の写真は撮れた。

夫と2人ではお腹が一杯で食べきれないと言ったら、
女将さんが残りを器に入れて持って帰れるようにして下さった。
この雑炊は冷めた方がおいしいとお客に言われて知ったそうで、
冷めてもおいしいからと、帰宅後あえて温めないで食べてみた。

最初の辺りで、この店は中央卸売市場の近くにあると書いたが、
季節のデザートは、この市場から仕入れて、老舗の和菓子と共に出される。

料理してもらいながら会話も楽しめるように、カウンター席を予約したので、
店主さんや女将さんと話しながら、いろいろ教えてもらえて良かった。
カウンター席といっても、ここのカウンター席はテーブルが広いから良い。


フグやカニをいただく店では、フグやカニは水槽に入っていることが多く、
写真を撮りたいのに、スッポンは水槽に入れてないのですかと問うたら、
暑くなってきたので、冷蔵庫へ入れている、冷蔵庫では冬眠している、
と言われて、写真を撮るために冷蔵庫から出して見せてもらいました。


首を長く引き伸ばして見せてくれたり、首を引っ込めたり、
元気に動き回る様子も見せてもらえて、満足、満足。


ひっくり返して、生きているスッポンの裏まで見せてもらえた。

このスッポンさん、今日は生き延びたけど明日は人間様の胃の中、
という運命なのでしょうね、きっと。 合掌。



戻る   目次へ