高瀬川散策



これが高瀬川。
高瀬川は、江戸時代初期の豪商、角倉了以・素庵父子が
慶長19年(1614年)頃に開いた物流用の運河で、
京都の中心部と伏見とを結ぶために作られたとか。
伏見を通じて、大阪からの物資などを運び入れ、
京都の経済発展に重要な役割を果たしたそうだ。


写真は鴨川にかかる二条大橋で、この二条大橋の南から始まり、
鴨川から分流した「みそそぎ川」を通って、高瀬川へと続く。


上の写真は北側を向いて撮ったが、南を向けば左が鴨川で右がみそそぎ川。
高瀬川というのは、この「みそそぎ川」から取水している。


この取水口の向こう側が「がんこ高瀬川二条苑」の庭園である。
取水口から「がんこ高瀬川二条苑」の庭園を通り高瀬川に通じ、
高瀬川は木屋町通り沿いに南下し、十条通りで鴨川に合流する。

「がんこ高瀬川二条苑」については、後で庭園の写真を載せる。


木屋町の北端に島津製作所創業記念資料館があり、
記念館のすぐ横が高瀬川の最上流で、ここから高瀬川が始まる。
ここには、当時の高瀬舟を復元した舟が浮かんでいる。

高瀬川は水深が浅いので底が平らな高瀬舟という船が使われ、
このことから「高瀬川」という川の名前が付けられたとか。

なお、森鴎外の小説「高瀬舟」は、この舟が物語の舞台になっている。


これは、史跡指定されている「一之船入」である。


船入とは、荷物の積み下ろしや船の方向転換を行う入り江で、
高瀬川から西側に直角に突き出すように作られている。


御池通りから木屋町通りを下がった所の川の中に3個の四角柱がある。
写真では、手前の川岸近くの1個が見えてなくて2個しか見えないが。
物資を満載して沈むのを防ぐために、この四角柱に木の板をはめて、
水位を調節して、船底をこすらないようにしていたそうだ。


二条から四条の間に9ヶ所の船入が作られたが、
現在は、「一之船入」の他はすべて埋め立てられている。
このように「二之船入跡」の石碑が立っているだけである。

しつこいようだが、高瀬川に沿って散策して写真を撮ったので、
二条から四条までの間にあった9個の石碑を入れてみよう。
これで終わりではありません。最後はまだ別の話題があります。


呆れもせず見ていただいて、ありがとうございました。


「七之船入跡」のある木屋町三条下ルに「角倉了似翁顕彰碑」がある。


散策するには高瀬川もなかなか良い雰囲気だ。


高瀬川を北から南へと歩いてきたが、話を元に戻して、
高瀬川が始まる最上流の場所に「角倉了以別邸跡」がある。
現在は日本料理レストラン「がんこ高瀬川二条苑」である。


角倉了以が高瀬川の源流に建設した別邸跡だが、その後、
明治時代になって山県有朋の別荘「第二無鄰菴」となる。


「がんこ高瀬川二条苑」の中の「高瀬川源流庭園」。
上で書いたように、山県有朋の別荘になった時に、
庭園は無鄰菴を作庭した小川治兵衛により改修された。

食事の前でも後でも、庭園は自由に散策しても良い。


最初に書いたが、あの取水口を庭園側から見るとこうなる。
高瀬川の流れは、この庭園を通って鴨川から引かれている。
この写真の庭園の取水口の向こう側がみそそぎ川と鴨川である。


さて、最後は「ろくでなし」で終わりましょう。

いえいえ、こんな店もあったということで、意味はありません。


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