山縣有朋の無鄰菴



無鄰菴は、山縣有朋の別邸で七代目小川治兵衛の作庭である。
説明文によると、「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つあり、
最初の無鄰菴は、山縣の郷里、長州・下関の草庵で、
名前の由来は、この草菴に隣家がないことによる、とか。

第二の無鄰菴は、京都の木屋町二条に購入した別邸(こちら)。

第三の無鄰菴が、京都・南禅寺参道前に造営した別邸で、
「無鄰菴会議」の舞台ともなった場所である。

ここでは、第三の無鄰菴について書くことにする。


第三の無鄰菴は、南禅寺のすぐ西側で琵琶湖疏水の畔にあり、
その後の岡崎・南禅寺界隈における別荘群の先駆けとなった。


敷地は三角形の形状で、広い日本庭園の他に、建物は以下の3つで成り立っている。
数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵を模して造られた茶室、煉瓦造り二階建て洋館。

洋館の二階には江戸時代初期の狩野派の絵師による金箔花鳥図障壁画で飾られた部屋があり、
元老・山縣有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎の4人で
日露戦争開戦前の1903年(明治36年)には、いわゆる「無鄰菴会議」が、ここで行われた。


広い庭園は山縣が七代目植治(小川治兵衛)に作らせたもので、
東山を借景に琵琶湖疏水を引き込み浅い流れの池泉廻遊式庭園。


数寄屋造りの母屋。


藪内流燕庵を模して造られた茶室。


庭の奥の方にある三段の滝。


作庭当初は芝生だったこの地に今では苔が広がっている。
山縣有朋は、最初は苔よりも芝の方を好んだそうだが、
高湿度の環境により変わる苔の美しさを受け入れたとか。


美しい苔の庭に建っている山縣有朋の言葉が綴られた石碑。
明治天皇から賜った御所の松を庭に植えて、それを記念して建てた石碑。
緑の松が生い茂り、雲を凌ぎ、龍となる程の勢いである感激を書いている。
その他にも、無鄰菴に巡り来る四季折々の情景を自らの言葉で刻んでいる。


1本の松の木の手入れを3人がかりでやっていた。さすが。


「むりんあん」の表記にはいろいろあり、

「無鄰菴」は、母屋の扁額にある字体で、現在、京都市ではこれを使用している。
「無鄰庵」は、国の名勝指定時の字体。
「無隣庵」は、常用字体。 昔の新聞記事はこれを使用していた。

と書かれている。 なお、

すべて正しく、間違いではありません。
園内でのご案内に際しては、「無鄰菴」を使用いたします。

とも、書かれています。


Mizuの部屋で書かれている言葉や内容はすべて正しいとは限りません。
誤字脱字や、内容に間違いがありましたら、お知らせ下さい。


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