猪名川町の多田銀銅山跡


多田銀銅山の歴史は古く、奈良時代に東大寺の大仏建立の時には
ここで採掘された銅が使用されたと言われているそうだ。


江戸時代に設置された代官所の中門。
実際の中門は馬に乗ったままで出入りできるような高い門だったのを、
足元だけを切り取り現在の高さにして保存している。


ここだけが坑道の内部が公開されている青木間歩(「まぶ」と読む)。
それ程広くはない坑道だがいかにも銀や銅が含まれていそうな雰囲気だった。


青いのは孔雀石だろうか、目を凝らして見れば小さな鉱石が見つかり、
場所によってはこの他にもいろいろな鉱脈があったようだ。


「青木間歩」の名前の由来は、周囲にアオキが茂っていたからだそうで、
今ではこれは明らかに植栽されたと思われるアオキが何本もあった。


ついでながら、この辺りにはヘビノネゴザが生えているそうだ。
「蛇の寝ござ(ヘビが寝るゴザ)」とはおもしろい!
おもしろいのは名前だけでなく、その性質もおもしろい!
銅、鉛、亜鉛、カドミウムなどを含んだ土壌に育つそうで、
金属鉱床を探す指標植物として役に立つ植物だそうだ。

これがそうかと写真を撮ったが、冬のこの時期には葉は出ていなくて、
これは同類のシダの仲間だがヘビノネゴザではなかったようだ。


台所間歩。
「台所間歩」の名前の由来は、豊臣秀吉が開坑し、良質の銀や銅が出鉱して、
大坂城の台所をまかなっていたことからこう呼ばれていたとか。
実際、豊臣政権の経済を支える程の豊富な量であったらしい。


瓢箪間歩。
「瓢箪間歩」の名前の由来は、鉱山技師の親子がこの鉱脈を発見し、
おびただしい銀や銅を産出して大繁栄したことから、ほうびとして
秀吉の馬印である千成瓢箪を与えられ入り口に掲げたことから呼ばれている。
立入禁止になっている入り口から更に奥を覗いて見たのが右の写真。


これは、瓢箪間歩大露頭と言って、鉱脈が露出している。
通常は地中を走る鉱脈が大きく地上に露出している。

ついでながら、以下は多田銀銅山跡の近くの屏風岩の写真。
屏風のようにそそり立つ岸壁が高さ30m、幅100mにわたり見事である。


さらについでながら、以下は野間の大ケヤキ。
樹齢1000年以上と推定されるとか。


冬枯れの枝にたくさん何やら固まって見えるのはヤドリギ。
こんなにたくさんヤドリギが寄生していてはケヤキの木は大丈夫かと心配になる。
傍らの能勢町役場けやき資料館によると、やはり以下のような展示があった。


ヤドリギはケヤキから水分や養分をもらい、ヤドリギが大きく成長すると
ヤドリギが寄生している所から先のケヤキの枝は枯れてしまうとか。


興味深かったのがこの展示。
ヤドリギの根の跡だそうで、こんな風にケヤキの年輪の中にしっかりと食い込んでいる。

親に寄生している子供や夫に寄生している妻、いや今時のこと妻に寄生している夫は、
大切な親木を枯らさないように程々に食い込むことを心掛けながら、
銀や銅、いやそれ以上に金の輝きのような値打ちでありたいものだ。(^^;)



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