鞆の浦で古希同期会


まだ69歳で古希には1年早いからと個人的には気に入らなかったが、
数え年で考えての古希同期会が広島県福山市鞆の浦で開かれた。
高校卒業後50年という記念の同期会でもあり、一泊しての会だった。
東京地区と関西地区と広島地区では毎年1回同期会が開かれているが、
今年はその他にこの泊りがけの同期会が加わった訳である。
卒業人数223名の内、参加人数は75名で、分っている故人25名だが、
案内状へ返事が戻ってこないのが30名あるそうで故人はもっと多いかも。

毎年会っている人達とは「お久しぶり」という感想だが、
何十年ぶりで会った人達とはいろいろ感想が違った。
面影が残っていて、すぐに思い出せた人も居れば、
特に男性の中には名前を言われても思い出せない人が居た。
皆それぞれに歳をとって年齢相応の風貌にはなっていたが、
遠く九州から参加して下さった8歳年上の数学の先生が、
男性陣の中では先生か生徒か区別がつかない感じで、
お若くお元気そうだったことが何より嬉しかった。



鞆の浦のシンボルである常夜燈。


朝鮮通信使節の迎賓館として使用された「對潮楼」からは
仙酔島や皇后島や多宝塔のある弁天島が正面に見える。
座敷に座って、窓枠を額縁に見立てて写真を撮っていると
ちょうどタイミング良く、「いろは丸」が航行してきた。
ご存知、坂本竜馬が運用して沈没した「いろは丸」だが、
現在では「平成いろは丸」が鞆の浦と仙酔島間を航行している。


常夜灯の右に見える坂本龍馬のいろは丸展示館も見学したが、
あの展示館は江戸時代に建てられた蔵をそのまま利用しているとか。


鞆の浦は古くから潮待ちの港として栄えた町で、
船着場としての雁木が造られてきたそうだが、
現在残っているのは、常夜灯のあるここだけ。
雁木とは、船着場における階段状の構造物で、
潮の干満による水面の上下に関係なく荷役が出来るため、
近代以前の船着場では多く見られたとか。


宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」の舞台ともなった鞆の浦だが、
この崖の上の一軒家に滞在して構想を練ったとか。


今も残されている古い町並みはなかなか趣があって良いが、
火事になれば消防車も入れないのではないかと思われる狭い通路に、
住んでいる人達の苦労も垣間見えて、観光客としては複雑でもあった。


とはいえ、江戸時代や明治時代に建てられた町家や商家の佇まいには心休まる。


さすが、どこにでもある訳ではない船具店もあった。
どこにでもある訳ではない店なのに懐かしい匂いがした。


鞆の浦の史跡めぐりの後、「平成いろは丸」に乗って仙酔島へ渡った。
これは、船を降りて仙酔島の船着場と背景の鞆の浦を撮ったもの。


泊まった宿の窓から撮った仙酔島の朝の風景。


おまけで、宿を訪れたタヌキの一家?


あまりに可愛かったので、もう1枚おまけ。


なかなか読めない名前だが、沼名前(ぬなくま)神社。
「祇園さん」と呼ばれ、京都の八坂神社はここから移されたとか。
翌朝、仙酔島から鞆の浦へ戻って全員揃ってお祓いをしてもらった。

前夜の宿での夕食では、瀬戸内海のご馳走は席に運ばれてきたが、
手拭とお箸とご飯と味噌汁はお盆を持って並んで、順番にもらった。
団体で大勢が並び、何だこれは?!行列するのかよ〜との声も出たが、
誰かが、「これは、”行列のできるレストラン”じゃないか!」と叫んだ。
歳をとると我慢できなくなり、いろいろ不平不満や文句も多くなるものだが、
文句を言わないでユーモアでやり過ごす気持ちの余裕を持ちたいものだ。

皆で揃ってお祓いも受けたことだし、毎日を元気に笑って過ごし、
誰一人欠けることなく、次は77歳の喜寿の会での再会を願って散会した。

自分が欠けることのないよう、気をつけねば…。



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