柳生街道ハイキング


午前中は雨の予報だったが朝起きてみると雨は降っておらず、
午後からは曇りの予報で友人夫妻との柳生の里歩きを決行した。
決行して良かった。雨どころか晴れ間も見えて快適な柳生の里だった。

今日の予定は、京都から行って柳生街道の全行程を歩くには時間的に無理なので、
近鉄奈良駅から忍辱山(にんにくせん)円成寺(えんじょうじ)まではバスに乗って、
円成寺から柳生へ、柳生から笠置までの約15Kmをおよそ6時間かけて歩く行程。


上は円成寺本堂(阿弥陀堂)。
下は鎮守社の春日堂と白山堂(鎌倉時代)。国宝。
全国で最も古い春日造社殿である。


夜支布(やぞう)山口神社。
大柳生の氏神である古い社。
本殿は春日大社の第四殿をここに移したもの。


田園風景あり、里山あり、林や森や山の中を歩いたこの日の行程、
馬を散歩させているのか、人が乗馬の練習をしているのか、
山と畑と民家の風景の中に溶け込んで似合っていた。


南明寺。
本殿は一重寄棟造りで鎌倉時代に建てられたもの。
本堂には木造の釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来の坐像3体を安置している。


おふじの井戸。
伝説がおもしろいので、以下は説明板に書かれていた話の要約引用です。

柳生城主の但馬守がこの井戸の側を通りがかり、洗濯していたおふじという娘に
「桶の中の波はいくつあるか?」と尋ねたところ、その娘は答える代わりに、
「お殿さんがここまで来られた馬の歩数はいくつ?」と尋ね返したそうだ。
但馬守は娘の器量と才気を見初めて後に妻に迎えたという伝説があるとか。
そこで、「仕事せえでも器量さえ良けりゃ、おふじ但馬の嫁になる」
という里歌が今でも残っているそうだ。

ここを通り過ぎ、私はさっそくに同行者に頼んだ。
「あの山に植わっている木は何本あるか?」と私に尋ねて、と。
そこで、同行者「あの山に植わっている木は何本あるか?」
私「あなたが歩いている道に転がっている砂の数はいくつ?」

はい、お粗末さまでした。(^^;)


山越えに入ってからは暗い森の中をかなりの時間歩いた。
アップダウンもあり、ちょっとした登山気分でもあった。
柳生の剣豪達もこの道を通ったのかと感慨深い。


「疱瘡地蔵」と言われる3mもの大きな花崗岩に彫られた大磨崖仏。
疱瘡(ほうそう)除けを祈願して彫られたと言われているが、
土の中から発見された時、顔の部分が剥がれ落ちて疱瘡にかかったように
見えたのがその名の由来だとも言われている。

その右下部分に4桁27文字の碑文が刻まれている。
一揆の時に農民が記した「正長元年より以前は負債は消滅した」
という意味の室町時代の徳政令を記した石碑のようだ。


柳生藩の幕末の家老、小山田主鈴の旧宅である家老屋敷なども見えて、
柳生の剣豪達の暮らしぶりを想像しながら歩いた暮れかけた柳生の里。


柳生十兵衛が諸国漫遊に旅立つ前に植えたと伝えられる十兵衛杉。
樹齢約350年。二度にわたる落雷により現在は立ち枯れている。


山道を歩いていて突然に天の石立神社の鳥居が現れた。
鳥居を過ぎてからは苔むした巨岩がいくつもあり、
柳生家の修練の場であったとか。
神社といっても本殿があるわけではなく、
標高330mの山中に鎮座する巨岩をご神体として祀っている。


この大きな岩は、長さ8m、幅7m、高さ2mの花崗岩で、
中央付近で斜め一直線に見事に割れていて、「一刀石」と言われている。
柳生新陰流の始祖柳生宗厳(石舟斎)が天狗を相手に剣の修行をしていて、
ある夜一刀のもとに天狗を切ったと思ったのがこの岩だったと伝えられている。


芳徳寺。この奥の方に柳生家一族の墓所がある。


写真中央が柳生三厳(十兵衞)のお墓。
何故、正面から撮ってないのかって?
実のところ、柳生十兵衞は通称で、
どれが柳生十兵衞の墓か分らなかった、のだ。
後で調べてこの墓が十兵衞の墓だと分ったのだ。

はい、知識不足、勉強不足が露呈したところで退散です。



戻る   目次へ