カナダの思い出(2)

1977年と1979年の思い出の旅行の写真集。 次にカナダ編を続けよう。


おお、ジベタリアンだ!


ケベック・シティ

モントリオール

オタワ

オンタリオ州の公用語は英語だが、ケベック州の公用語はフランス語である。
ケベック・シティとモントリオールはフランス語なので、いろいろと困った。
先ず、東西南北が解らないので高速道路のどこで出たら良いかが解らず問題だ。
こういう場合はすべて想像力がものを言う。
これがなかなかに正解で、結構うまくいった。
街の中ではさすがに「STOP」だけは英語で書いてあった。
レストランでは「フランス語と英語とどちらで伺いましょうか?」と
フランス語で聞かれる。何故だかそう言っていると解るから不思議だ。
「英語でお願いします」と言うと、英語で注文を聞いてくれる。
おかげでフランス語の単語をいくつか憶えたが今は又すっかり忘れてしまった。
トイレで困ったことがある。
男性と女性の区別を絵で表示されている場合は良いのだが、
たまに文字で書かれている場合がある。これが困る。
解決方法。 トイレの前で待っていて、男性が入った反対側へ入った。


トロント

ナイアガラの滝

サスカトゥーン

懐かしいトロントで載せた CNタワーを近くで見るとこんな感じになる。
当時4歳だった次男がCNタワーを見上げていた。
雲が流れていて、雲に焦点を当てて見るとまるでタワーが倒れてくるように見える。
私が冗談で「あぁー、タワーが倒れてくるー!!」と叫んだら、
次男も丁度その時同じように見ていたのだろう、
何とも形容の仕様のない見たこともないおびえた顔で私の所へ逃げ込んできた。
予想外の効果のありように「ごめんごめん、大丈夫、大丈夫!」と謝る羽目に。
あの何とも言えないこの世の終わりというような表情は今もはっきりと思い出される。

ナイアガラの滝へは三度行きました。
黒い合羽を着て「霧の乙女号」という船に乗って滝の真下まで行き、
目を開けていられないような水しぶきの中で、迫力満点の滝を味わったり、
タワーに上がって滝の水がどこから来てどこへ流れて行くのかその全体像を眺めたり、
滝の裏側から眺めることもできる。


カルガリーからバンフへ

ルィーズ湖

バンフ

ジャスパーへ

コロンビア大氷原

ジャスパー

カルガリーでレンタカーして、カルガリーからバンフへ。
そして、バンフからジャスパーまでのカナディアンロッキーを車で走った。
10月末でシーズンオフだったために行けども行けども対向車はない。
ガソリンスタンド、レストランなどの店もみな閉まっていた。
ガソリンは満タンにして、食料なども積み込んでいて助かった。
車にチェーンは付けなかったが、道路の両側は段々雪が深くなってきて、
こんな所でガス欠になったり、車が故障したら一体どうなっていたことか。
壮大なカナディアンロッキーの人を寄せ付けない厳しさを秘めた
身が引き締まる風景には圧倒され続けた。


バンクーバー
スタンレー公園のトーテムポール

ジャスパーからは列車でバンクーバーへ着いた。
ここまで来て夫が熱を出して寝込んでしまった。
高熱を出して眠っている夫を見ながら皆しょんぼりとしてしまった。
夫抜きで出かける元気はなく、食事はルームサービスを頼むことにした。
どこへ電話してどうやって頼めばいいのか、何を頼んだらいいのか、
親亀がこけたら皆こけた。
何とか食事を頼むことができて、皆ぼそぼそと食べ物にありついた。
幸い一晩寝たら元気になってくれて皆どんなに嬉しかったことか。

実はこの時、私の母が日本からやってきていた。
2週間ほど滞在して我々と一緒に帰国の途についた。
たった一人でJALのファミリーサービスを受けてやってきた。
このことは次回「カナダでの生活」に譲るとしよう。
この母が大金を持っていてホテルの金庫に預けていた。
夫の病気、小さな子供達、年寄り連れ…といろいろあって、気が回らず、
金庫に預けた母の大金のことなどすっかり忘れていた。
空港で気がついてホテルへ電話して日本へ送ってくれるように頼んだ。
ところが、お金は送れないと言うことで、日本円だったのでドルに換えて
日本の銀行の口座へ送ってもらった。
日本では更に円に換えなければならないから二重に為替交換して損をした。
が、無事に戻ってきたのはもうけものらしい。

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