カナダの思い出(3)



日本でもおなじみのカモの母子と人間の母子。
カモのお母さんは7羽の子供を連れていた。
人間のお母さんは2人だけ。 カモの勝ち。
1羽だけ離れたカモに1人離れた人間の子。

治療しない医師

1977年。外国へ行くのは初めて、飛行機に乗るのさえ初めての私と子供たち。
カナダへ着いてしばらく経った頃、夫は仕事でアメリカへ行くと言う。
しかも2週間も行くというのに私と子供たちには留守番しろと言う。
その頃夫の長期の出張の時はいつも私は「実家へ帰らせてもらいます」
と言って、子供たちを連れて私の実家で過ごしていた。
日本でさえ2週間もの長期の留守番をしたことなかったのに、
初めて住んだカナダで2週間も留守番しろと言う。
「付いてきてもいいけど、お前たちに付き合う時間はない。
仕事ばかりだから付いてきてもおもしろくはないだろう。」
と言って、夫は一人でアメリカへ発った。
私は子供たちを車に乗せて買い物に行ったり、公園へ遊びに行ったり、
友人のお宅を訪ねたり、幸いにノイローゼにもならず無事に過ごした。
一番の心配は夫の留守中に子供たちが病気になったり怪我をすること。
2度のカナダ滞在中、子供たちは元気で一度も医者にかからなかったが、
この時ばかりは、救急車の呼び方をしっかりと教えてもらっておいた。

子供は無事だったが、おできが出来たらしく私の耳が痛くなってしまった。
痛みをこらえて動きの激しい男の子2人を静かにさせながら病院へ行く自信も、
私の貧弱な英語力で病院関係の英語を理解する自信もなく、
日本から持参した鎮痛剤を飲んで、3日3晩痛みに耐えた。
夫が帰宅してからすぐに病院へ連れて行ってもらった。
その頃にはかなり痛みは治まっていたが、
医師は私の耳の中を覗き込んで見るなり、Oh! my God!
オーマイゴッド!と言っただけで何も治療してくれなくて、
処方箋を書いてくれて、これを持ってドラッグストアへ行けと言う。
「オーマイゴッド!」だけなら私にも理解できたのに…。
もらった薬ですぐに治った。

私の英語能力について

子供の英語についての話は次に譲るとして、先ずは私の英語から。
カナダに着いてすぐに近所で知り合いになった人と通りすがりに挨拶したら、
それを見ていた1年か2年を過ごしていらした日本人の奥様連中から
「まだ来たばかりなのに最初から英語をしゃべっている!」と言われた。
自分でも何とか通じるので何だ自分はしゃべれるんじゃないかと気を良くしていた。

さて、子供が慣れるまで子供の幼稚園へ最初の頃は送り迎えをしていた。
ある日、同じように送り迎えをしているお母さんが居たので話しかけた。
「どちらから来られたのですか?」「子供さんは幼稚園を気に入っていますか?」
などの簡単な会話だったと思うが、彼女は「英語が解りません」とだけ英語で答えた。
そして、我々の子供よりは少し大きめの女の子を手招きした。
その女の子が私に言うには、
「この人はカナダへ来たばかりで英語がしゃべれない。
あなたが何を話しかけたのか聞いてほしいと言っている。」と。
私は、私達も日本からカナダへ来たばかりで子供が幼稚園へ通い始めたので、
彼女の子供がどんな風に幼稚園へ通っているかを知りたくて、
そのようなことを話したかっただけだと答えた。
すると、その女の子は意外にも「あなたの英語が解らない」と言った。
そのお母さんは初めて家族でトルコから来たそうで、
女の子も同じトルコからだが1年間も住んでいるので英語が解る、
というようなことを話してくれた。
それにしても、自分の英語が子供に通じなかったことはショックだった。
大人は話の前後から推測して私の英語を理解してくれていたのだ。
子供は正直でシビアだと実体験した。

おばあちゃんの英語

2002年の今年91歳になった私の母はまだ元気だが、逆算すると当時は66歳だったか。
JALのファミリーサービスを受けて娘一家が住むカナダへたった一人でやってきた。
JALのファミリーサービスというのは、英語がしゃべれない者には便利だ。
飛行機の搭乗口まで送ってくれて、出口まで迎えにも来てくれる。
当時日本からトロントへの直通便がなかったのが母には不運だった。
少しでもトロントへ近づいていたいと乗り継ぎ空港はニューヨークを選んだ。
ニューヨークからは飛行機の中は英語しか通じない。
飲み物をもらう時「コーヒー」と言ったら「コーラ」が来たそうだ。
着いてから母がこの話をするのを聞いて、子供たちは、
「おばあちゃん、コーヒーは“カフィ”と言わなければ駄目だよ」と言った。

英語がしゃべれないと入国審査を通るのが問題だ。
母は入管で質問されて答えることを英語で書いてもらって持ってきていた。
また、着物姿の母は怪しまれたか税関で荷物を開けるように言われたらしい。
娘一家に食べさせようと日本食をいろいろ持ってきていた。
得体の知れない日本食料品をこれは何だ?といろいろ聞かれたらしい。
勿論英語など分からないから全部母の推理による会話だ。
これは食料品だと、食べるジェスチャーをして通り抜けたそうだ。
そうして我々の待つ出口まで無事に出てきた。 たいした度胸だ。

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