カナダの思い出(5)


1977.5 撮影

2002.5.24撮影

カメラ角度が少し違うが、25年前に撮った写真と今年の写真。
周りの木々が大きくなっていたことと、壁の色が変わっていたので、
車で探していた時、最初は気がつかないで一度通り過ぎてしまった。
敷地の入り口にMARRIED STUDENT APARTMENTSと書かれていた案内標識は
UW PLACEと名前が変わってはいたが、同じ場所に立っていた。
こうして写真で比べてみると、木が大きくなっていることで年月を感じる。
25年前にも桜の種類の木があって、食べられないチェリーがたくさんなっていた。
このアパートの一室にゲスト用の完全家具付きの部屋があり、我々はそこで暮らした。
完全家具付きとは、家具寝具電気製品は勿論、台所用品・タオル・雑巾まで付いていた。
だから、半年間という長期間であっても、洋服類を持って行っただけで暮らせた。
ベッドルーム2部屋、勉強部屋、リビングにダイニングキッチンの5部屋だった。


1977.8.22撮影

2002.5.24撮影

現在では日本でも普通になったマンションのセキュリティだが、
当時は、住人以外は入れない玄関のセキュリティが珍しかった。
子供達は、住人が出入りするすきにさっと手際よく入ったりしていた。
25年ぶりに訪ねた時、夫は玄関に書かれた住所の番地を見る前に、
「102 Seagram Drive」という住所を英語で思い出した。
と同時に私は、「310」という部屋番号を英語で思い出した。
不思議なことにそれは日本語の「310号室」のイメージではなく、
口をついて出たのは、英語の「スリーテン」なのである。
あちらでの体験は英語で記憶に残っているのだ。
ここにあれがあった、あそこにあれがあった、と記憶の糸がほぐれて、
興奮して次から次へといろいろ思い出していった。


2002.5.24撮影

おもしろかったのは、この消防車。
丁度訪ねた時に消防車が来て止まっていた。
実は、ここで暮らし始めた最初の頃、突然けたたましく警報が鳴った。
何事かと驚いてあわてて廊下へ出た。
同じようにドアを開けて何人かの人が顔を出していた。
夫の留守中だったので私は不安そうに近くの人に何事か?と尋ねた。
「何でしょうね、でも大丈夫でしょう。」と言ってくれるだけで、
みんな落ち着いていて、様子を見ているだけで誰も動こうとはしなかった。
私は様子が分からないので心配で一応外へ出てみることにした。
分かったことは、外のごみ置き場が燃えていたということ。
以後、実に何回もゴミ置き場のボヤや警報機の誤作動で警報が鳴ったが、
慣れてくると私も一応ドアを開けて廊下の様子を眺めるが、
最初の時のようにあわてて行動はしなくなった。
幸い一度も消防車が活躍する火事はなかった。
いつも消防車は無駄足を踏んで帰っていった。
25年ぶりに訪ねたこの日も消防車が来ていたのには笑ってしまった。
なんだ25年前とおんなじだ、なんにも変わっていないじゃないか。


1977.5 撮影

1979.8.6撮影

2002.5.24撮影

初めてカナダで住んだ時には、こういう広〜い芝生が嬉しかった。
すぐ隣にも近くにもあちこちに贅沢にあって、しかも人が少ないから、
ほとんど我が家の庭のように独り占めして遊べる。
阪神タイガースのユニフォームを着てサッカーに興じる子供たちだったが、
野球にもサッカーにも才能の芽は花開かなかった。
25年ぶりに訪ねたこの日も、近くでパンと飲み物を買って、
ピクニックベンチに座って緑の中で心地良い風に吹かれながらお昼を食べた。


1977.5 撮影

2002.5.24撮影

よく遊びに行っていた公園の遊具。
真新しい木の香りがする遊具が時を経て灰色に変わってはいたが、
やはり木の遊具として同じような形で残っていた。
ロープを使った遊具やタイヤを使った遊具など自然感覚の遊具が多かった。

パーティで困ったこと

同じような子供を持つごく親しい人から家へ招待された場合には、
子供も一緒に連れて行って子供達はその辺で遊ばせておくことができた。
が、そうでないパーティでは子供は預けてから出かけた。
夫の仕事関係のパーティでは、最初はともかく夫にくっついていた。
立食パーティでは、夫が動けば私も一緒に動いて見失わないように必死で、
金魚の糞のように離れなかった。
困ったのは、10人程の夫婦が招待された時、テーブルに座る席順を決められた。
それぞれの夫婦は離されて、対角線上に座らされた。
夫と私は大きなテーブルの一番遠い位置に座った訳である。
英語が解らない時に、側の夫に助け舟を求めることができない。
一つの話題でみんながしゃべっている時はまだいいが、
それぞれ近くの人としゃべり始めると必死で、集中力を高めた。
再び一つの話題に戻るとホッと安心して、ほとんど上の空。
私と個人的に話す時は少しはゆっくり話してくれるが、
彼等が大勢でワッシワッシと笑い合ってしゃべっている話題など、
ほとんど私の理解の外。
帰宅後、理解できた話を突破口に夫から聞きだして確認していった。
このようなパーティではかなり鍛えられた。

同じような子供を持っている女性とは話し易かった。
近くの遊び場で子供が遊ぶのを見守りながら、よくお母さん達と話した。
お互いの国の教育環境とか、子供のこととか、お互いの国や家族のこと、
そういう話題なら2時間位でも話を続けることができた。

英会話に見るお国柄

教会がボランティアでやってくれていた英会話に行っていた。
長男が幼稚園へ行っている間に次男を連れて行っていた。
次男は別室でボランティアの人が遊ばせながら見ていてくれた。
次男を車の後ろに乗せ、助手席には知り合いの女性を乗せて通った。
助手席の人とはお互い未熟な英語でしゃべりながらの運転だから、
今考えれば、どちらにも気をとられてこわい運転だ…。

さて、英語をしゃべることにはお国柄があらわれていた。
多種多様な人種の集まりだったのが、おもしろかった。
テキストを使ったり文法的なことを質問されると、俄然日本人は強い。
何でそんなことも解らないの?ということにも答えられない人が多かった。
テキストもすらすらとは読めない。
ところが、お茶とケーキで休憩に入ると、彼等は英語で実によくしゃべる。
圧倒されて日本人はシュンとしてしまって、たちまちに立場が逆転する。
日本人のこの傾向は、最近では改善されているのだろうが、
「話す英語」が軽視されていた昔の英語教育のあり方と、
多人種に慣れていないシャイで引っ込み思案の日本人の性格が災いしていた。
私はその頃はかなり積極的で元気もあったので(現在は心臓が強くなっただけ)、
カナダ滞在を目いっぱい楽しんで、日本へは帰りたくなかった。
が、帰ってきてしまったので、蓄えたわずかな英語は近年出て行くばかりで、
阪神タイガースのように(2002.8.27 現在)、貯金がなくなり借金は増えるばかり・・

カナダの思い出(4)へ戻る



目次へ 外国旅行記へ 次へ