ベルリンでの3日間


ベルリンといえば、やはり一番に心に浮かぶのは「ベルリンの壁」だろうか。
1961年8月13日に壁が築かれてから28年間、西と東に分断されたベルリンだが、
1989年11月9日にベルリンの壁に突然穴が開けられたニュースは世界を驚かせ、
翌年東西ドイツが統一されたことは日本人の我々にも記憶に新しい出来事である。

崩壊した壁の破片は、その後ベルリン土産として人気があったそうだが、
大部分は粉砕されて道路舗装などにリサイクルされたそうだ。
現在では、何ヶ所かにわずかな壁が残されているのみである。


シュプレー川沿いの約1.3kmの壁は「イーストサイドギャラリー」といって、
ドイツだけでなくいろんな国の画家達が壁に描いた絵が保存されている。
壁の裏側には何も描かれていないが、土産物屋があって観光化している。


こちらの壁は「ベルリンの壁記録センター」近くの壁で、
鉄骨がむきだしのままで残されているのが生々しい。


ベルリンの壁博物館 (旧:チェックポイントチャーリーハウス)。
建物のガラス窓には現在の平和な町の様子が映っているが、
壁博物館の中に一歩足を踏み入れると、そこは当時の修羅場の再現だ。
ベルリンの壁が築かれた1961年8月13日当時の市内の様子や、
境界となった建物の4階から飛び降りる子供の写真や、
逃れてきたルートや車・トランクに隠れたりした様子が展示されていて、
東側から逃れてきた人々の想像を絶する苦難が読み取れる。


建物の外にも中にも、ここにも当時の壁が展示されている。


壁博物館のすぐ近くの当時の検問所。しかし、これはレプリカで、
本物の国境検問所は連合軍博物館に保存されているそうだ。
周囲の現在の平和な様子からはここに検問所があったという事も偲び難い。


ここからこちら側はアメリカの管理下、あちら側はソ連の管理下にあり、
ここを通り抜けるとアメリカの保護から離れますよ、という当時の看板。
これもレプリカか?


さて、これは統一ドイツの象徴であるブランデンブルク門。
凱旋門としてアテネの神殿の門を手本に建てられたものだが、
東西分断時代にはこの門のすぐ側に壁が築かれていて、
この門を通ることはできなかったので、自由の象徴でもある。


ブランデンブルク門の上の勝利の女神と4頭立ての馬車の像。
別の日に撮った写真なので背景の晴れ具合が違うが、
正面からと側面からの写真。


ブランデンブルク門から東に延びる大通りがウンター・デン・リンデン(菩提樹の下)。
真ん中の分離帯が何とも広くて、散策するにも良し、カフェまであったりする。
広い車道の両側にも菩提樹が植わっていて、菩提樹並木は4列で続いている。


ブランデンブルク門から南へ行ったすぐの所にあるこれは、
虐殺されたユダヤ人に捧げられた記念碑で、
高さも大きさもまちまちのコンクリート製のブロック。
2711個もあるそうだ。ブロックの間を通り抜けられる。
ここに座っている人たちは休憩しているのではなくて、
ユダヤ人虐殺の歴史などについて語り合っているのだ。


菩提樹通りから歩いて行ける距離にベルリン大聖堂がある。
壮大なドームはどこからでも目印になる。
ベルリン大聖堂もシュプレー川の中洲にあるのだが、
この中州にはスケールの大きな5つの博物館が集まっていて、
「博物館の島」と呼ばれ、世界遺産に登録されている。


ペルガモン博物館では、古代ギリシャのペルガモンで発掘された
「ゼウスの大祭壇」が再建されていて、圧巻である。
建物の外側はタイミングが悪く工事中の覆いで無粋だが、
中には巨大な遺跡がそっくりそのままの形で展示されている。


古代バビロニアの「イシュタール門」と「行列通り」。
一部は発掘されたレンガをそのまま使い、その他は再現されている。


さてさて、このページを終わるために話を元に戻して、
ベルリンの壁博物館 (チェックポイントチャーリーハウス)や検問所
の近くで見つけた、これはどうもレンタカーらしい車。
というより、レンタカー会社の宣伝か?道路に駐車していた。

実は、この車は東ドイツで使われていた排気ガスをいっぱい出す車で、
写真でも分かる「トラビ」は愛称で、トラバントという名前の車。
当時西側で走っていたフォルクスワーゲン車と比べて品質の劣る車である。

わざわざこの車をレンタカーする人が居るのかどうか。
これをユーモアと言うのか?商魂たくましいと言うべきか?

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ハンブルクでの5日間へ続く



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