熊本城復興城主


昨年7月に(誕生日は9月)夫の喜寿(77歳)のお祝いの会をしてもらった。
夫のかつての職場関係の人達が全国からお祝いに来て下さった。
定年退職してから13年も経つのに90人もの人達が集まって下さった。

集めた会費が余ったそうで、幹事の人が素敵なことを思いつかれた。
2年前の2016年(平成28年)4月に発生した熊本地震で
被害を受けた熊本城修復の支援を募る「復興城主」制度があり、
夫の名前(夫名の喜寿の祝いの会一同)で寄付をして下さったのだ。


「城主証」なるものが送られてきた。


「この度の熊本城復元整備基金へのご芳志に感謝し
貴殿が熊本城主であることを証します」とある。


「熊本城復興城主手形」なるものも送られてきた。
皆さんに報告ができるよう、そして、話題性のために、
熊本城の復興状態を見るために、熊本まで行ってきた。


上記手形で、夫は無料で城彩苑「湧々座」へ入れた。
ちなみに、私は有料で、300円を払って入った。


城彩苑「湧々座」2階で、名前か城主番号で検索すると、
大きなスクリーンにデジタル芳名板が映し出されて、
皆さんに報告するために、夫を入れて記念撮影もした。

さて、その熊本城だが、現在あちこちが工事中で、
今はまだあの美しい熊本城を見ることはできないが、
工事中の熊本城の周囲を歩いて回れるようになっている。


江戸時代には方角を干支の動物で表すことがあり、
これは、南西角にある「未申櫓(ひつじさるやぐら)」。
ある角度から見ると、一見無事なように見えるが、
横へ回って見ると、激しく崩れていることが分る。


お城の玄関である「西大手櫓門」「元太鼓櫓」。
石垣が激しく崩落し、櫓が傾いている。


右側に見えるのが大天守で、正面中央が小天守で、左側が宇土櫓。
宇土櫓は、大天守・小天守に続いて「三の天守」と呼ばれている。

大天守は、瓦が落ちるなどの被害を受け、最上階は被害が大きく、
説明板によると、解体して立て直す工事を進めているそうだ。


その「宇土櫓」に近づいて見ると、これは無事だったように見える。
実際、ここでガイド?をしているおじさんが得意げに話したことは、
江戸時代の造りは石の積み方が頑丈で、地震にも壊れない、と。
しかし、説明板によると、南に付く続き櫓が倒壊し、
五階櫓の壁漆喰や床などが破損したと書かれていた。


北西角に位置する三階櫓の「戌亥櫓(いぬいやぐら)」。
櫓下の石垣が大きく崩落して角石のみで櫓を支えている。
両側に延びる石垣もほどんどが崩落している。

櫓の崩壊を一本足で支えているように見えるが、
ニュースで有名になった一本足は飯田丸五階櫓だが、
今は工事中で、地震直後のあの様子は見えない。


奥に見える戌亥櫓から続く石垣は崩落しているが、
滑り落ちた大木の根っこも、まだそのままだ。


高さ約20mの石垣の上に建つ一階建ての「北十八間櫓」。
櫓と土台の石垣が崩落して、櫓の部材と崩落した石材を
今後の修復に備えて、整理・保管しているそうだ。


同じく高さ20mの石垣の上に建つ一階建ての櫓で、
「東十八間櫓」。北側は北十八間櫓に接続している。


崩落した石垣の石材の仮置き場。
特別史跡の石垣なので、旧来の位置に石を戻す必要がある。
そのため、崩落した石の位置を記録し、石に番号を付け、
石材置き場に仮置きしているらしい石が積まれていた。


熊本城は、日本三名城の1つに数えられているが、
加藤清正が完成させた城で、加藤清正公の像があり、
加藤清正を主神とする加藤神社が熊本城内にある。


「加藤清正公をNHKの大河ドラマに」署名運動実施中(ご協力を)とある。

恩義を重んじ、情に厚い生き方をした武将である清正公の遺言。
「恩を受けしことは 軽量をはからず 肝に銘じ 忘るべからず」

はてさて、恩を感じて署名すべきか??

と、これで終わりにしようかと思ったが、地震で壊れた写真ばかりでは寂しい。
時間があったので行ってみた美しい水前寺公園の写真で終わりましょう。


こちら)で、パノラマ写真もどうぞ。

なお、茶色に見えているのは砂地ではなくて一面の芝生で、
冬のこの時期には枯色だが、春には緑鮮やかになることだろう。




「草枕」の小天温泉へ続く



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