天下分け目の天王山


やっと非常事態宣言が解除されて、ほんのちょっびり遠出をした。
といっても、もちろん京都府内(大阪府との府境)だけで、
地下鉄と阪急電車に乗って行ったが、人出はそこそこあった。
でもまだ間隔を空けて座れる程で、歩いた距離は18463歩。

この日は暑くて、山の中ではマスクは外して歩いた。
小さな子供連れの一家も登っていて、すれ違う時には
「小さいのに頑張っているねぇ!」と声を掛けてあげると、
「こんにちはー!!」と元気な返事が返ってきて、
対面を避けた日常からは、久しぶりに嬉しい触れ合いだった。


「ここにもネズミが」(こちら)で載せた小倉神社を通って、
小倉神社の境内から続く天王山登山口から登った。


手前に「天王山 山頂へ」の標識が見えるから良いものの、
「天王山登山口」の標識は青いごみ袋に隠れて見えなかった。

なるほど、青い袋はごみ袋ではなく、資材を入れているようだ。


歩いて行く途中、小倉神社の建物は深い森の中に見えた。


話題が少ない山歩きには、小さな可愛い滝も話題性がある?


美しい竹林もあったのに、写真に撮ったのはこんな荒れた竹林。
そして、どこの世界にも居る仲間から遅れて頭を出す竹の子。


前を行く相方はゆっくりヨタヨタと登っているが、
若者3人のグループは走ってかけ登って行った。


ちょっとした広場へ出たので、やれやれ頂上かと思いきや、
小倉神社1.0Km、天王山頂上1.5Km、ということは、
これまで登ってきた以上にまだまだあるということだ。


土の中から芽を出して伸びている小さな松の木の姿に、
負けられないと癒されながら気を取り直して歩き始める。


ところが、道は登るどころか下って行く。
せっかく登ったのに、かなりの距離を下った。

山ではいつも思うことだが、登るだけなら良いのに、
せっかく登ったのに下っては又登るの繰り返しで、
結局、小倉神社のある山と天王山は別の山だったのだ。


さて、それでも歩き続けて登ると、天王山の頂上へ着いた。
標高はわずか270.4mだが、ハイキングには丁度良い。

この地の大山崎周辺は京都の出入り口にあたり、
しばしば戦場となり、その際には天王山山頂に城が築かれた。


頂上には、その山崎城の礎石や石垣跡が残っている。

織田信長を討った明智光秀とその仇討ちをした羽柴秀吉が戦った山崎合戦では、
この山を制した方が天下を取るとして、「天下分け目の天王山」と言われた。


「天王山」といえば「天下分け目の大決戦」の代名詞となっているが、
実際の合戦の地は、天王山東側の湿地帯で行われたと言われていて、
旗立松展望台から見えるこの写真に写っている辺りだそうだ。

桂川と宇治川と木津川が合流して淀川となる川の流れに沿って、
山崎の戦いで勝負を決したのは、この淀川沿いの戦いであった。


「山崎合戦之地」の石碑。

山崎の戦いは、織田信長を討った明智光秀の軍勢と羽柴秀吉軍が激突した戦いで、
摂津国と山城国の境に位置する山崎(京都府長岡京市乙訓郡大山崎町)での戦い。


上で書いた「旗立松展望台」の「旗立松」とは何のことか。

天王山での山崎合戦の時、秀吉が羽柴軍の士気を高めるため
千成瓢箪の大旗を山上の松の樹上高く掲げた所だそうで、
戦局に大きな影響を与え、勝利を収めたと言われているとか。

なお、現在のこの松は7代目だそうだ。


中腹には奈良時代の僧、行基が開いた宝積寺がある。
豊臣秀吉と豊臣家の保護を受けた寺のようだ。


重要文化財の三重塔。
「豊臣秀吉 一夜之塔」との案内があり、
山崎の合戦で亡くなった人を弔うため一夜で建立したとか。

手前で三重塔をスケッチしている人が居て立ち退きそうになく、
その人が写らないよう気を遣ったら塔の先が切れてしまった。(^^;)


天下分け目の天王山の登頂証明書なるものをもらった(100円)。

標高わずか270.4mでの登頂証明書もないものだが、
「次に目指すは天下取り、天王山からいざ出陣」とあり、
なるほど、そうか、天王山の頂上を極めたのだから、か。



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