内山下小学校


京都から足立美術館へ行くには、新幹線で岡山まで行き、
特急「やくも」で米子へ。 宿からの送迎バスで皆生温泉へ。
翌日は、宿の送迎バスで米子駅まで送ってもらい島根県安来駅へ。
JR安来駅からは無料のシャトルバスで足立美術館へ。

新幹線で岡山へ着く直前の乗り継ぎ案内の車内アナウンスで、
伯備線の特急「やくも」が運休していることを初めて知った。

どこかへ出かける時には、あらかじめ現地の天気予報は調べる。
しかし、この時はそんな心配もなかったので案じていなかった。
分らなかったはずで、岡山県新見市だけが局地的な大雨で、
新見市では、前日に「記録的短時間大雨情報」が出たそうだ。

岡山10:04発に乗る予定が、1時間に1本の「やくも」すべて運休で、
3時間後の13:04発から再開されるので、それまで3時間を待つか、
遠回りになるが特急「いなば」で鳥取へ行く方法を案内してくれた。
しかし、岡山を3時間早く出ても米子到着は45分の違いだけということで、
岡山で3時間待つことにした。13:04に確かに出るか不安もあったし、
運転が再開されても徐行運転などで遅れが出ることも予想できたが。
結局、やはり徐行運転した区間があり、米子到着は20分遅れた。

さぁ、3時間何をして過ごすか、何やかやで結局空いた時間は2時間程度。
駅前の観光案内所へ入った。 地図をもらって話を聞いている中で、
内山下小学校を卒業したので、近くの岡山城や後楽園は知っていると話すと、
応対してもらった女性も内山下小学校出身だということで話が盛り上がった。
廃校になったことは、ネットで検索して知っていたので、その話をすると、
学校は閉校したが、でも建物は残っていて、今でも他の学校に利用されている、
と教えてもらって、それでは内山下小学校を見に行こうと、即決まり!


岡山市の街中にある「岡山市立内山下小学校」。
明治20年に開校し、平成13年に閉校したそうだ。

現在は、他の中学・高校が特別教室として利用したり、
イベントの行われる場所としても使われているようだ。
校内には車が駐車していて、トラックも出入りしていた。


昭和8年に、当時としては珍しい市内初の鉄筋校舎になり、
児童数も2、000人の大規模校の時期もあったそうだが、
街中の小学校ということで、児童数は極端に減少したとか。


内山下小学校が特別なのは、校庭内に「岡山城西丸西手櫓」がある。
岡山大空襲でも燃えずに残った、国指定の重要文化財である。

つまり、内山下小学校は、岡山城二の丸西丸に建てられたのである。


これは、校外の通りから見た「岡山城西丸西手櫓」の裏側。

岡山城には、天守閣の他に34基の櫓があったそうだが、
現在では、本丸の月見櫓と、この西丸西手櫓を残すのみだとか。


校門前に「池田光政公隠居所跡」の説明板がある。
池田光政公は、国替えで鳥取藩主から岡山藩主になり、
岡山城本丸で治世に当たったが、晩年はここを居所にして、
以後この場所が藩主の隠居所となった、と書かれている。


後ろに岡山城西丸西手櫓の一部が見えているその前に石碑がある。
校庭内にある石碑には、「池田光政公御居間址」と書かれている。


「烏城(うじょう)」と言われる岡山城が学校側の道路から見えていた。
小学校に通っていた頃は、珍しくもなく毎日眺めていた烏城だと思うが、
久しぶりに見た真っ黒のお城には不思議な懐かしさを感じた。

なお、「内山下」の地名の由来について。
山下(さんげ)とは、城郭の天守・本丸の周囲のことで、
岡山城の山下(この場合、本丸から二の丸までの一帯)のうち、
本丸に近い部分、つまり内側部分を内山下と呼んだ、とのこと。

なるほど、それにしても、こんな由緒ある小学校に通っていたなんて、
お城に関係する小学校に通っていたなんて、当時は何も知らなかった。

「やくも」が運休で、足立美術館行きがどうなることかと思ったが、
そのおかげで懐かしい小学校を訪ねて貴重な時間を過ごすことができて、
何事も、悲観することなく、プラス思考でやっていこう。



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