1977年と1979年の2度それぞれ約半年間をカナダのWaterloo(ウォータールー)に住んだ。 夫の仕事に家族で付いて行ったのである。 冬は厳しい寒さだそうだが、我々は春夏秋の快適な期間だけを住んだ。 最初の時は、長男が5-6歳、次男が3-4歳だった。私、若かった。 2度目の時は、長男7-8歳、次男5-6歳だった。私、まだ若かった。 昔の写真を出して眺めていると、忘れていたことが次から次へと思い出される。 楽しかったことばかりで、順を追って書いていると終わらない。 昔を懐かしむようになったらお終いだと突っ込まれることを覚悟で、 記録として残すために、あえて話題性のあることだけでも書いておこう。 先ずは、思い出の旅行の写真集から。アメリカから始めよう。
ラスベガスでは、私はスロットマシンをやってみたかった。 家族で食事をして、1ドルコインを買って、さぁ始めようと機械の前に立った。 すると、どこからかお巡りさんがやってきて何やら言っている。 子供を連れて外へ出ろと言っているらしい。 そんな! 今1ドルコインを買ったばかりで、これから始めようという時に! 意味が解らずポカンとしていると、お巡りさんはさらに言った。 食事はしてもいいが、子供を賭け事の場に来させてはいけない、と。 そこで我々は初めて子供をキャンブルの場に連れて来ていることに気がついた。 ちょっと遊びたかっただけで、我々にはキャンブルするという認識はなかった。 楽しみにしていただけに残念で、子供が居ることを恨んだ。(^^;) 1ドルコインは珍しいので、たくさん買ったコインはお土産に持ち帰ることにした。 ところが、帰りにロスアンゼルス空港で私は見つけてしまった!! 何と空港にもスロットマシンが置いてあったのだ! あきらめたことがやっぱり出来る!と嬉々として機械の前に座った。 あぁそれなのに、またもやどこからともなくお巡りさんがやってきた。 「子供を機械から離しなさい」と言っている。 子供の教育のために厳しいことは良いことだと感心した。 感心はしたが、せっかくの機会だ。やっぱり一度はやってみたい。 仕方ないので、夫に子供を連れてあっちへ行ってくれと頼んで、 私だけで、一人で、念願のスロットマシンを初体験した。
アメリカやカナダの大学は広い敷地にゆったりと建物が建っていて、 豊かな緑がいっぱいでうらやましい限りであるが、 訪ねたコーネル大学は、大学の敷地の中に豊かな森や林があり、 何と滝までが流れていて、しばしの間立ち止まって覗き込んでしまった。 エンパイアステートビルディングの上から眺めたニューヨークの写真には、 確かに双子の世界貿易センタービルが写っている。(カメラの故障でぶれてる) 1973年に建てられたそうだから、この時はまだ比較的新しかっただろうに、 28年後のあの同時多発テロで崩落の運命にあると誰が予想しただろう。 ニュージャージーのアメリカ人の友人宅に家族4人で4泊もさせてもらった。 友人宅の家族5人と計9人で過ごした5日間は子供が5人も居て騒がしかった。 ある日「明日、日本食のパーティをするから料理を作ってほしい」と言われた。 その日は我々家族だけでニューヨークへ出かける予定だったのであたふたとしたが、 「大丈夫。下準備は全部しておくからニューヨークへは出かけたら良い。 魚屋さんへ案内するから何を買ったらよいかを見ておいてほしい。 お米も醤油も日本の酢も油もある。」と言われて覚悟を決めた。 このアメリカ人、日本人の知り合いも居るので親日家である。 案内された魚屋さんには大きなエビがいて、魚屋は明日もあるよと言うので、 当日エビを買ってくれるように奥さんに頼んだ。 翌日ニューヨークから帰ってくると、大急ぎで料理にかかった。 と言っても、天ぷらと酢の物とおにぎりくらいを作ったと記憶している。 ニューヨーク見物から帰ってからの準備では、案の定、間に合わなくて、 招いていた彼等の友人夫婦3組6人が賑やかにやってきた。 日本食だと言うので珍しがって彼等は台所へ入ってきた。 汗だくでおにぎりをむすんでいるのを見ておもしろがってくれた。 そこで、むすび方を指導してみんなにやってもらった。 男性も女性もわいわいと賑やかに結構上手に出来た。 さて、食事はみんなおいしいおいしいと言って食べてくれた。 デザートの時間になって、奥さんが作ったデザートを持ってきた。 「デザートも日本のかい?」と尋ねた人に奥さんが「これはアメリカのよ」 と答えると、「おおグッド!アメリカはいいねぇ!」と彼等の本音が出た。 図体の大きい彼等のお腹には日本食は足りなかったらしい。 彼等は大きな一切れのケーキを満足そうに食べていたっけ。 |