福井城と養浩館庭園



福井城は、初代の福井藩主となった徳川家康の次男・結城秀康が、
かつての北庄城の大修築を行い、6年掛かりで福井城を完成させた。


福井城天守台「福の井」。

福井城築城当時から現在の場所にあったと伝えられる井戸だそうだ。
この井戸は「福の井」と呼ばれ、福井城の特別な井戸であったとか。

大変な被害が出たそうだが、昭和23年(1948年)の福井地震では、
本丸の石垣が至る所で崩れたが、「福の井」は崩壊することはなかったとか。

現在の井戸は、平成29年(2017年)に復元完成したもの。
後述の笏谷石で出来ている。
「福井」の名前の由来となったとする説もあるそうだ。


福井城天守台跡の石垣には、福井地震による崩壊の跡が残っている。
石垣が沈んで歪んでいる様子が分かるだろうか。


福井城本丸の西側を守っていた門である「山里口御門」。
築城当初からあり、「廊下橋御門」とも呼ばれていた。


朝倉氏を滅ぼした織田信長の家来である柴田勝家が越前国に入った際、
北ノ庄城(福井城)の屋根を瓦ではなく笏谷石で葺(ふ)いたそうだ。

笏谷石というのは、福井市の足羽山で採掘される石材で、
青緑色で、水に濡れると深い青色に変化するそうだ。

なお、前ページで書いた「一乗谷朝倉遺跡」で出た井戸もこの笏谷石で造られている。


屋根付きで珍しい形態の「御廊下橋」。

藩主が本丸と三の丸御座所を往復するための藩主専用の橋。
藩主は、御座所から御廊下橋を渡り、山里口御門を通って、
本丸へ向かったと考えられているようだ。

さて、福井城の話題はこの辺で終わり、もう少し福井市内を歩いた。


錦公園にある旧一乗町の石碑。

城下町で最も古い町名で、柴田勝家が朝倉氏の本拠地の
一乗谷から住民を移住させてつくった町と言われている。


養浩館庭園は、かつての福井藩主松平家の別邸である。
江戸時代の初期から中期にかけて造られたそうだ。


明治維新によって福井城は政府所有となるが、
ここは引き続き松平家の所有地とされたそうだ。


庭園は、池を中心に数寄屋造りの屋敷と池周りの園路から
さまざまな景色を楽しめる回遊式庭園となっている。


笏谷石の切石積による変形五角形の内池。


蒸し風呂を備えた御湯殿。


最後は、遊び心で、これは一体何でしょう?


新型コロナウィルスの感染拡大で出た非常事態宣言が解除されて、
ずっと我慢していた友人ご夫妻との旅行に出ることにしたが、
その後、東京でも関西でも不気味な感じで感染者数が増えてきた。

しかし、再びの非常事態宣言が出ることはなく、決行することにした。
これは何という制度だと不評のGo To トラベルが始まる前に行ったのだが、
施設に入る前には、ニュースでよく見るあの額での体温を測られ、
感染者が出た場合の連絡先として氏名・住所・電話番号・年齢を書かされた。

2週間経ったが、感染者が出たとの連絡はなく、無事だったようだ。



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