先ずは、以前に書いた「近眼と老眼とパソコン眼」(こちら)をもう一度読んで下さい。 その後、私の目は、白内障と緑内障まで加わり、ますます見えにくくなった。 1ヶ月に1度は眼科へ白内障と緑内障の目薬をもらいに行く。 眼科の先生は「見えにくくありませんか?ご不自由ありませんか?」と尋ねられる。 「手術したくなったらいつでも言って下さい。いつでも出来ますからね。」 と、行く度に毎回言われる。どうも先生は手術をしたがっている様子だ。 緑内障の方はもちろん注意が必要でその時が来たら覚悟しなければいけないが、 先生が毎回勧めているのは白内障の手術の方だ。 これはいつでも良くて、こちらが希望すればの話で、 「不自由を感じて困るような質の高い生活をしてないのでまだ大丈夫です」 と、私は毎回その度に答えることにしている。 手術に踏み切れない理由の1つに母の思い出があるからだ。 80歳台で母が白内障の手術を受けて眼帯を外し鏡を見た時一番に発した言葉が、 「私の顔って、こんなにしわくちゃだったの?」 94歳で亡くなった母はずっと元気だったが、顔は年齢相応にシワだらけだった。 ところが、母は自分の顔のシワが見えてなかったのだ。 その時私は感じたものだ。手術を受けさせたのが良かったのかどうか? “見えない幸せ”というものがあるのではないか、と。 確かに、手術後よく見えるようになって、同居していた姉が言うには、 「買い物に行くと自分は見えないので消費期限を母に見てもらう」と。 それほど良く見えるようになるのなら、と、心は動くが、 も一つ手術に踏み切れない理由がある。 子育てしていた若い頃は、家の掃除は毎日やっていたが、 子供が巣立ち夫婦二人だけの生活になってからは1週間1回に減った。 1週間1回では階段の両隅に埃がたまるのが気になりそこだけは掃除していた。 それが、ふと気がついてみると、最近では階段に埃などたまらなくなり、 年寄り夫婦2人だけでは埃もたたないような静かな生活なのだと変に感心していた。 ところが、ところが、ある日あることに気が付いてしまったのだ。 それは、階段に埃がたまらなくなったのではなくて、 階段に埃はたまっているのだが、見えなくなっているのだ…と。 やっぱり、“見えない幸せ”というものがあるのだ。 |