安土城下を歩く



JR琵琶湖線「安土」駅で電車を降りて歩き始めたが、
駅前では、いきなり織田信長像が迎えてくれた。

戦国時代に天下統一を目指した織田信長が、
この安土の地を選んで築城したのである。


暑くもなく寒くもなく快適な気候の中を、
人通りも少ない民家の間を抜けて歩いた。


音堂川湧水。
安土の里に降った雨が伏流水となって沸き上がっていて、
ここでは、地元の人が野菜を洗ったり洗濯をしながら、
世間話に花を咲かせる昔ながらの風景が残っているそうだ。


戦国時代に織田信長の支配下に入り、安土城の港として栄えた常浜。
昭和初期までは琵琶湖を周航する蒸気船の寄港地として賑わっていたとか。


北川湧水。
上で載せた音堂川湧水と共に3つある湧水の内の1つ。
3ヶ所ある湧水地では、今でも清水が湧き出ている。


日本最初のキリシタン神学校セミナリヨの跡地である。
信長の庇護を受けたイタリア人宣教師によって創建され、
本能寺の変の後で、安土城炎上と共に焼失したそうだ。
現在は史跡公園となっている。


さて、安土城跡を目指して田園風景の中をのんびりと歩く。


山の上の安土城は築城からわずか3年で焼失し、幻の名城となった。
石垣だけが面影を残すが、発掘調査が進み当時の姿が明らかに。


天守跡へ登る405段のこの階段がきつかった。

四国の金刀比羅宮(こちら)で1368段!を登った経験があるが、
金刀比羅宮の階段はコンクリートで同じ平面状の階段で歩き易いが、
ここの階段は石を積み上げているので、ごつごつして歩き難い。

膝を痛めて、どこにも行かなかったのが、やっと治ってきて、
足慣らしにと歩いたのが「狐坂(きつね坂)を通って」(こちら)。
「安土城下を歩く」は、その次の足慣らしだったのだが、
405段の石段はきつかったのに、引き返す訳にもいかず、
結局、頂上まで登り切った。 後日、膝は大丈夫だった。
足慣らしの「狐坂」での万歩計は8625歩だったのだが、
この日の万歩計は23542歩だった。


石段の中にある、何とこれは石仏だ。
築城の際に石材として使われたものだそうだ。
多くの石材は近郊の山々から採取したそうだが、
その中には石仏や墓石なども含まれていたとか。

出土した石仏等は、本来は信仰の対象となっていた物だが、
築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存している、
と、趣旨をご理解下さい、と説明板に書かれている。


石積みの階段がきつかったので、何度も写真を撮った。


仏足石。
石段の中の石仏と同様、築城当時単なる石材として集められ、
石垣に使われていたらしく、石の中から見つかったそうだ。
お釈迦様の足跡を表現したもので、崇拝の対象とされていたとか。


天守閣跡に残っている礎石。


写りが悪いが、天守跡から眺める琵琶湖と比良山系。
近江を支配したかのような気分を味わえる、かな。


「帰路はこちら」という矢印に沿って歩くと、
下りではなく、またまた上りの階段になった。


信長を拝するために建立された「ハ見寺」跡。


琵琶湖八景にも選ばれている西の湖が見えている。


「ハ見寺」の三重塔と仁王門は現存している。


下りでは森林浴もしながら歩けたので、その様子も。


田園風景の中に3つの近代的な建物が見えてきた。
安土城考古博物館と安土城天主信長の館と文芸の里レストラン。


時間的にもすべてに入る時間はなく、「信長の館」へ入った。

スペイン万博に出展された安土城天主最上部2層を移築し展示している。
天主5階は仏教の世界観による理想郷を象徴していて宇宙空間を表す八角形で、
金箔約10万枚貼りの外壁、金箔のシャチホコを乗せた大屋根など豪華絢爛だ。


豪華絢爛な復元安土城の最後は、ぐっと現実に戻って・・自動販売機です。
出かけたこの日の2日前に設置されたという自動販売機だそうです。

お金を入れるとほら貝の音がして、「お主はどれを所望であるか選ぶがよい」と
信長が語りかけて購入を促し、買いたい商品のボタンを押すと「いざ出陣」と聞こえ、
商品が下の搬出口から出てくると、「この度の活躍誠に見事であった。大儀である」
の音声が流れる、という仕掛けになっている。 側に居た人と一緒に笑ってしまった。

なお、購入者がない場合は昼間に限り2時間毎にほら貝の音が流れ「呼び込み」をするとか。



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